昭和42年04月16日 朝の御理解
傘一本で開く事が出来るという。『此の方の道は傘一本で開く事が出来る』という。例えば今日のような御湿りの日でも、傘がないために濡れなければならない。傘がないためにしるしい思いをしなければならない。傘がある長靴がある、いわゆるレインコートを着て、雨具の用意がでけて、そして雨の中をすたすたと歩いていくと言う事は、また雨の中もまた楽しいと言う事なのだけれども、傘がないから濡れねばならん。傘がないからしるしいのである。
人生の中にはそれこそお天気の日ばかりではない、雨の日もあれば、または風の日もある。又の教えに『雨が降るから、風がふくから、えらい大儀と思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。』と教えておられる。身に徳を受ける修行なのである。雨が降るから、風がふくからえらい大儀と思わんですむだけの信心。いやその雨も風もまた楽しいと受けていけれる信心。そういう信心を身に付けて行くと言う事が、身に徳を受ける修行じゃと仰る。
この世は身に徳を受けていかなければ、お天気の日だけは楽しいのだけれど、雨の日はいやだ風の日は嫌だと言うておったら、雨の日や風の日は幸せではない事になる。人生行路の中には雨風は必ずつきものである。いやむしろその雨や風がなからなければ、いうなら徳は受けれられんのである。お天気の日ばかりでは決して徳は受けられない。雨風があって、その雨風を元気で受けていく、しかもそこに辛抱の出来れる信心をさせて頂いてこそ、身に徳を受けるのであるから雨も又有難し風も又有難いのである。
信心をさせて頂いて、いよいよ神様のあられ方の中に、いわゆる御働きの中にもまた風もまたお恵みだ神愛のあらわれだ。氏子かわいいという天地の親神様の御一念のあらわれであるということを、私共がほんとに悟れたとき、それがほんとに分かったとき、雨もまたありがたいのである。しかもそれが信じられたときに、神様の働きに間違いないんだ、神様のお働きには間違いがないのだと心の中に確信ができるところに、私は雨が降ってもしるしうないというおかげが受けられる。
私は思うお道の信心は傘一本で開けれる道と仰るその傘というのは、神様を確信して疑わない、神様を信じて疑わない心、神様のなさる事の中には、降ろうが照ろうが氏子がにくいから、氏子がしるしい思いをする事を喜ばれるのではなくてね、雨も風もまた神愛のあらわれじゃと、神様が分かって氏子に分からせようとなさる働きなのだ。そこが分かるときに私共はそれが確信できる、それが信じきられると言う事なんだね。それが信じきられると言う事が、私は傘一本でと仰るのじゃなかろうかと思う。
その確信というものが一つあれば、神様を信じて疑わない心が一つあれば、どのような場合でも安心であると言う事ね。雨が降ってもだから濡れんですむのである。風が吹いてもだから折れんですむのである。ここのところを皆さん一つ分からせて頂かなければならない。お互いお天気である事は大変有難いね。お天気である事は有難いのだけれでも、しかしお天気の日ばかりであったら、徳は受けられないと言う事。
私共の日常生活の中に、ただよかったよかったと言う様な事ばぁっかりであったら、力は得られないと言う事ね。場合には歯を食いしばって辛抱しなければならない様な事もある。けれどもこれで力を受けるのだと思うと、その心の底からありがたいお礼心も湧いてくると言う様なもの。『雨が降るから風がふくから えらいと思うてはならん その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ』と。
『此の方の道は傘一本で開く事が出来る道である』。傘というのは神様を信じて疑わないというその心一つ持っておれば楽じゃと言う事なんです。いや雨も風もまた楽しいのだと言う事なん。いやそれをもっとれば、いわば傘を持っているのであるから降りだしたら開きゃあいいのですから、濡れんですむおかげが受けられるのである。いよいよ私はその傘一本が頂けれる信心を、身に付けていかなければならないと思うのです。
どうぞ。